敦賀市と鉄道の歴史

敦賀といえば半島に囲まれ日本海に面した良港として知られ、
古代には朝鮮や中国からの使者が訪れ、戦国時代には陸路交通の要衝として
織田・徳川・豊臣の連合軍が浅井・朝倉と覇権を競った地でもあります。
また江戸時代には北前船の寄港地として海運による商業も栄え、
港町としてのイメージが強まりました。しかし明治以降、港の発展を支えたのは
鉄道だったのです。


日本海側に初めて鉄道が通ったは敦賀。
それに関連する産業も栄え、鉄道関係従事者も多く住んでいました。
敦賀駅の所在地は鉄輪町(カナワ町)といい、鉄道の車輪から付けられた
地名になっております


鉄道ファンにとって敦賀は特別の地。
それは、敦賀の鉄道は先駆的で実験的、多様性にあふれているということが
あげられます。


〜以下、その説明をいくつかいたします。〜

●1882(明治15)年、鉄道が敷設されるが全国でも5番目と早かった事。
京阪神と日本海を結ぶ輸送ルートとして大津―長浜は琵琶湖を船で、
長浜から敦賀を鉄道で結ぶ構想でした。

*長浜まで直結するのは2年後の84年。柳ケ瀬トンネルの開通を待つことになります。
(柳ケ瀬トンネルは国産技術で4年間で掘削、全長1352メートルは当時日本一。)
その後、同じ4年間で約10倍の長さを誇る今庄に抜ける北陸トンネルが完成しました。

*ループ線、港線など変化に富んでいて、初めて交流電化されたのも敦賀でした。
(2006.10より直流化により京阪神へ新快速乗り入れが開始されました。)

*現在は敦賀駅を起点に、琵琶湖の東側を通る北陸本線が、東海道新幹線に
繋がる米原・名古屋に、琵琶湖の西側を通る湖西線が、京都・大阪方面以西に
繋がっております。 逆に敦賀は京阪神・中京からの北陸への玄関口でもあります。

また戦前は大陸(中国・朝鮮・ロシア)との海上交易拠点として、大変な賑わいがあり、
その一つとして、欧亜国際列車の存在があります。


欧亜国際列車とは?
正しくは「欧亜国際連絡列車」。列車そのものが国境を越える訳ではないので、
本当の意味の「国際列車」ではありませんが、しかしこの列車は日本の国内路線
(東京〜敦賀)と、日本海を渡る船(敦賀〜ウラジオストック)、
そしてシベリア鉄道を連絡して、東京とヨーロッパ諸都市を結ぶ経路を形成し、
共通の切符が発行されました。
(東京で終点であるパリまでの切符を買う事が可能な路線でした。)
*1912年に,上記ルートの接続列車として,新橋(当時,東京駅はまだない)〜
金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)を結ぶ直通列車が開通します。
これが「欧亜国際連絡列車」の始まりです。
*第一次世界大戦、ロシア革命などによって一次中断することはあるものの、
1940年(第二次世界大戦が本格化する頃)まで列車は運行され続けました。
(1932年の国際連盟総会において、国際連盟脱退を宣言した松岡洋右一行の
往復にもこの経路を利用。)
この経路が利用されたのは、当時の海路では約40日かかった東京〜パリ間を
17日間で結ぶものだったからです。

この「欧亜国際連絡列車」の乗り継ぎ駅。つまり東京を始発した列車に於ける
日本国内においての終着駅が金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称、
戦後は貨物専用駅となる=2009年3月にその使命を終え閉鎖)であります。
*現在、旧敦賀港駅跡地には鉄道資料館がオープン。
(通票閉そく機の実物、列車や機関車の模型のほか、敦賀の鉄道史や
欧亜国際連絡列車の運行ダイヤなどもパネル展示。)

●杉原千畝と敦賀!
1940年には杉原千畝の「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が、シベリア鉄道経由で
敦賀港に上陸し、敦賀から列車で横浜・神戸へ!そしてアメリカへと渡りました。
まさに当時の敦賀は、鉄道を中心としたヨーロッパと日本の玄関口でも
あったわけです。


〜以上、簡単ですが、敦賀が鉄道の街である理由がお分かり頂けましたでしょうか〜

その敦賀駅前に一力は屋台ラーメンとして登場し現在にいたっております。
また、海運の街でもあることから、敦賀港開港100周年を記念したイベントの中で、
港と鉄道の街である敦賀をPRするべく、「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の
作者でもある松本零士先生に御協力を賜り、現在も多くの著作が敦賀市内で
使用されております。
一力においても、松本先生が当店のラーメンを大変気に入って頂いた御縁から、
弊社商品のパッケージにキャラクターを使用させて頂いております。
 より詳細な情報はWikipedia『敦賀駅』にて。